★『歎異抄』の「ただ」とは??★

BLOG4794

 

 

★★★

 『歎異抄をひらく』 のテレビ座談会の感動を

 お伝えした 朝日町のYさんから

 昨日、電話がありました。(*^_^*)

 

 

★★★

「今ね、『歎異抄をひらく』読んでるところなの。

 175ページに こう書かれてあるでしょ。

 

 

*****

 では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。

 「ただ」とは、

〝ただ〟の〝ただ〟もいらぬ〝ただ〟じゃったと、

 無条件の救いに驚き呆れた〝ただ〟である。

 

 

 地獄ゆきの明らかな悪性を突きつけられても、

 

 千円落としたほどにも驚かず、

 明日の命はないぞと切り込まれても、

 

 まだまだ大丈夫とケロッとしている。

 

 そんな者を、そのまま救う弥陀だと聞かされても、

 

 百円貰ったほども喜ばない。

 

 これではならぬと真剣に聞こうとすれば、

 キョロン、トロン、ボーとした心が

 腹底にドタ牛のように寝そべっていて、

 ウンともスンとも聞く気がない。

 

 「屍(しかばね)の心」と聖人がいわれたのはこのことか。

 

 金輪際、仏法聞くような奴ではありませんと愚痴れば、

 そんなお前であることは、とうの昔から万々承知だ、

 だから〝そのまま任せよ〟の弥陀の仰せに、

 

 ただただ、びっくり仰天。

 

 どうせ地獄より行き場のない私だ、

 どうにでもしてくださいと、

 弥陀に一大事の後生を、ぶちまけた〝ただ〟なのだ。

 

 どんな難聴の者にも届く、

 不可称不可説不可思議の声なき〝ただ〟であり、

 

 弥陀と私が同時に生きた

 「他力信心」をあらわす〝ただ〟である。

 

*****

 

 ここは、とても大事なところだなあと

 筋(線)を引いておこうと思うんだけど、いいかしら?」

 

 

★★★

「それはそれは 素晴らしいですね。(^o^)/~~

 『歎異抄をひらく』読まれているのですね。

 そこは とても大事なところですから

 今度 じっくりお話したいですね」

 

 

★★★

 これは『歎異抄』第二章について

 『歎異抄をひらく』(高森顕徹先生著)で

 解説されているところですね。

 

***************************** 

 親鸞におきては

 「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、

 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、

 別の子細なきなり。 (『歎異抄』第二章)

***************************** 

 

★★★

 親鸞聖人の、

 「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の

 「ただ」の誤解は、甚だしいようです。 (>_<)(>_<) 

 

 「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」 と理解し、

 「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」 と

 思っている人は、非常に多いですよね。

 

★★★

 しかしそれは、

 一知半解の誤り。(>_<) (>_<)

 

 親鸞聖人の教えは、

 一貫して 信心一つの救いだから、

 

 唯信独達の法門」 といわれるのです!!

 

 

★★★

 では「ただ念仏して」とは??

 その意味を教えてくださっているのが

 冒頭で紹介したところですね。(*^_^*)

 

★★★

 『歎異抄をひらく』 を

 

 繰り返し拝読させて頂きたいと思います☆

This entry was posted on 月曜日, 12月 28th, 2009 at 11:47 PM and is filed under なるほどなるほど親鸞聖人. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

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