★『歎異抄』の「ただ」とは??★

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『歎異抄をひらく』 のテレビ座談会の感動を
お伝えした 朝日町のYさんから
昨日、電話がありました。(*^_^*)
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「今ね、『歎異抄をひらく』読んでるところなの。
175ページに こう書かれてあるでしょ。
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では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。
「ただ」とは、
〝ただ〟の〝ただ〟もいらぬ〝ただ〟じゃったと、
無条件の救いに驚き呆れた〝ただ〟である。
地獄ゆきの明らかな悪性を突きつけられても、
千円落としたほどにも驚かず、
明日の命はないぞと切り込まれても、
まだまだ大丈夫とケロッとしている。
そんな者を、そのまま救う弥陀だと聞かされても、
百円貰ったほども喜ばない。
これではならぬと真剣に聞こうとすれば、
キョロン、トロン、ボーとした心が
腹底にドタ牛のように寝そべっていて、
ウンともスンとも聞く気がない。
「屍(しかばね)の心」と聖人がいわれたのはこのことか。
金輪際、仏法聞くような奴ではありませんと愚痴れば、
そんなお前であることは、とうの昔から万々承知だ、
だから〝そのまま任せよ〟の弥陀の仰せに、
ただただ、びっくり仰天。
どうせ地獄より行き場のない私だ、
どうにでもしてくださいと、
弥陀に一大事の後生を、ぶちまけた〝ただ〟なのだ。
どんな難聴の者にも届く、
不可称不可説不可思議の声なき〝ただ〟であり、
弥陀と私が同時に生きた
「他力信心」をあらわす〝ただ〟である。
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ここは、とても大事なところだなあと
筋(線)を引いておこうと思うんだけど、いいかしら?」
★★★
「それはそれは 素晴らしいですね。(^o^)/~~
『歎異抄をひらく』読まれているのですね。
そこは とても大事なところですから
今度 じっくりお話したいですね」
★★★
これは『歎異抄』第二章について
『歎異抄をひらく』(高森顕徹先生著)で
解説されているところですね。
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親鸞におきては
「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、
よき人の仰せを被りて信ずるほかに、
別の子細なきなり。 (『歎異抄』第二章)
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親鸞聖人の、
「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の
「ただ」の誤解は、甚だしいようです。 (>_<)(>_<)
「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」 と理解し、
「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」 と
思っている人は、非常に多いですよね。
★★★
しかしそれは、
一知半解の誤り。(>_<) (>_<)
親鸞聖人の教えは、
一貫して 信心一つの救いだから、
「唯信独達の法門」 といわれるのです!!
★★★
では「ただ念仏して」とは??
その意味を教えてくださっているのが
冒頭で紹介したところですね。(*^_^*)
★★★
『歎異抄をひらく』 を
繰り返し拝読させて頂きたいと思います☆






